サマーコード


 屋上に来るのではなかった。僕は一瞬で後悔した。
 八月の日差しで、床はひどく熱くなっているだろうし、その照り返しが恐ろしかった。階段までは、暗く、涼しげな雰囲気だったから何も思い付かなかった。
 それでも彼女は、ひょー、と奇声をあげて外へ飛び出していく。「お弁当腐るぞ」僕はこちらを見ている笑顔に、そうつぶやいた。
 小さな影に隠れながらも、ひどい日差しのせいで僕らはまともに顔を上げられなかった。青空も、負けないくらいに鮮やかだ。時折吹く風は、更にじわりと汗をかかせるだけだった。
「暑いねえ」
 彼女がわかりきったことをいいおにぎりを頬張った。
「ユーラシアーユーカラシーソー!」
 彼女は彼女なりの涼しくなる呪文を唱えながら、ぬるくなったお茶を飲む。ご飯が終わるとひなたへ足を伸ばし、あちち、と言いながら笑う。そして本を取り出して、しおりが挟んであるページを開いた。
 僕は、彼女の本を読む姿が好きだ。彼女が本に入る時、す、と表情が変わる。そして、時々無意識に髪を耳にかけながら、目はひたすらに文字を追う。この暑さの中でもそれは寸分も狂わない。
 しばらくそれを眺めてから、手持ちぶさたになったのでイヤホンを耳につけ、音楽を聞いた。なんとなく暑さにも慣れてきて、音楽を聞きながら、残りのパンを食べる。
 ちょうどシャッフルした二曲目がはじまり、好きな曲に思わず笑みがこぼれた時、視界の隅でぱたぱたと動くものがあった。向くと彼女がぼうっとこちらを見ている。そして無意識に足を動かしていたことに気がつき、慌てたあと、まじめな顔をつくった。
 なんとなく彼女が話したそうだったので、僕は音楽を止めイヤホンを外す。
「ねえ、いっしょにいてふたつのことをするの、変だよね。ごめんね」
 彼女はすでに本を傍らに置いていた。しおりの位置はまだ、本の半ばだった。正直、僕は変だとも何とも思っていなかった。むしろ彼女の読書を狂わせた自分を、ばか、とののしった。
 彼女はそのあとも本を読もうとはしなかったので、とりあえずイヤホンを差し出す。彼女の顔がぱっと明るくなる。
 長さが合うように彼女が肩を寄せてきて、耳にそっとイヤホンを付ける。その時気温が少し上がったのだ、と僕は思う。お茶を飲み干してもまだまだ、夏は暑い。
「こういうのが好きなんだね」と彼女は笑いながらこちらを見た。
 ぐんぐんと、温度は上昇していく。
 あいた方の耳から彼女の鼻歌が聞こえる。僕も、それに合わせて歌った。
 白いコードがふたりの耳に音楽を流していく。




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