六畳一間のマイワールド


「部屋の広さに合った物の量が大切、なんだって」
 だからさ、やってみたら、一度。
 壁全体にテレビの光が明滅する。音を入れなくても、大げさなテロップを拾えば何を話しているのかがだいたいわかる。リモコンを拾って赤いボタンを押すと、ぷつり、電源の切れる音がした。代わるように時計の針が鳴り始める。窮屈な部屋、六畳。わたしは起き上がりパーカーを羽織った。
 坂道を登り始めるとすぐに太ももが痛みだした。少し走ってみたけれど十数歩でやめ、ときどき足を揺らし疲れを振り払いながら歩いた。ガードレールを挟んで向こうの道を、車が滑り降りてくる。イヤホンから流れてくる曲が、車とすれ違う時に聞こえなくなって、また元に戻った。歌詞通りに空を見上げたりして、紫色に暮れなずむそれと、下に広がる街を眺める。
 10分ほど歩き、最後に坂道に面した小さな公園に着いた。誰もいない。ブランコに座ると、伸ばしても折り曲げてもその高さでは足が収まらなかったので、あきらめてそこを離れた。ベンチに座る。ちょうど正面が開けていて街が一望できる。イヤホンを外し、コードを本体にくるくると巻き付けてポケットにしまう。
 思ったよりもまっすぐでない2列の電灯の間を、車のライトが数珠つなぎになってのろのろと進んでいく。一台が右折して建物の奥に消えた。建物に窓がびっしりとついている。黄緑、黄色、黒、黒、黄色。カーテンなしに、黒、黄色。薄いカーテンに、オレンジ、黒、黒。誰かが夕食の支度をしている四角と、まだ一人も帰ってきていない四角と、ぜんぶきっとだけれど、ひとつひとつの建物の一面に並んでいて、そんなものたちが視界のずっと向こうまで続いていた。

 「じゃあ2番と答えた人」
 教室の3分の2くらいの人が重たそうに手を挙げると、先生は苦笑しながらその通りですね、では次の章、と声をかけた。一斉にページがめくられる。わたしは問2の3番につけた丸に消しゴムをあてた。
「なければ、忘れちゃうんだから」
 声が聞こえる。ねえ、テレビでもやっているじゃない。やってみたら、いいんじゃないの。
「今までの所で質問のある人はいますか」
 筆箱のチャックがあちこちで開き、プリントをファイルへとかたづける音が広がり始める。わたしは先生の目を見つめてみた。教壇の上で動いている彼の視線はわたしを通り過ぎて端へたどり着き、そのまま宙に浮いてしまった。
 塾を出ると、赤黒い雲が、高層の建物の間を流れていた。風が強い。上空もそうなのだろう。自転車の鍵を外しながら、午後8時の空は綺麗じゃないと思った。星がひとつだけ光っていた。あとは見えない。街の明かりのせいだ。自動ドアが開き、立ち止まっていたわたしの方へ人が押し寄せてきた。違うクラスも授業を終えたらしい。流れに押されるままに、わたしは家までの道を歩き始めた。
 自転車を押して坂道を登る。かごに載せたサブバックが重たくて、いつもうまく進むことができない。中学に入ると荷物がどんどん増えて、明日も明後日も決まっていて。流行りのものも、しておくべきことも、ある。あれがないとさみしくて、これはもうだれも使わない、そんなことばかりだ。もう知らない、どうでもいい。自分につぶやきながら、とりあえず押してくるものに引っ張ってくるものにしたがっていけばいいのだ。
 先程まで後ろから吹いていた風が、今度は向かい風になってからだにあたってきた。髪留めに使っていたバレッタが落ちてきて、わたしは自転車を止めた。直している途中、背負っているリュックで肩が痛む。そのとき強い風が吹いて、かごがぐるりと動き、自転車が傾いた。そしてそのままががたん、と倒れてしまった。
 車道を自動車が登っていく。一瞬、倒れた自転車と散らかった荷物が車のライトに照らされた。サブバックのチャックが開いてしまったようだった。わたしはしゃがんで、バックからこぼれ出した色々なものを眺めた。毎日使っているテキストと、筆箱。あとは暗くてよく見えない。手にとってみると、それはメモ帳だったり資料集だったり、誰かと一緒に買ったピンだったりした。
 一度軽くなったサブバックを立て直して、物を入れていく。取れてしまったキーホルダーに、ハンカチ、友達の手紙。そのうちに、何だかどうでもよくなってきて、どうしてこれを持って帰らなくてはいけないんだろう、と思い喉のあたりが痛くなった。ここで捨てて帰ってしまおう。そうしたら、家にあるもの全部ぜんぶ、すっきり処分できるような気がした。どうでもいいや。なくなったら忘れてしまうものばかりなんだ。サブバックに残りの物を適当に詰めて、もう少し行った所にある公園に置いていってしまおう。そう思うと心なしかリュックも軽く気持ちも妙に楽しくなって、自転車を立て直し速足で歩いた。
 坂道を登りきったあたりに、小学校の頃よく遊んでいた公園がある。わたしは、入り口で自転車を止め荷物を持って中へ入った。ざわざわと木が鳴り、遊具がしんとして動かない公園は、いままでとは違って感じられた。大人になったんだな、などと思いながら、もう乗らなくなったブランコを通り抜けて、見晴らしのきくベンチの方へ向かう。木と木の間を抜けてそのベンチを見つけた時、わたしは足が止まった。ちかちかと光る夜景を切り取るようにそこへ座っている人影が見えた。わたしは即座に来た道の方を向いた。からだの音が聞こえませんようにと思いながら、できるだけ静かに急いで歩いた。公園の外へ着いたら、あとはもう自転車に乗って、坂道をブレーキなしで下った。家の前で自転車を止め、玄関へ駆け込み、部屋の鍵を閉めた。からだ中が波打っている。わたしはサブバックを抱きしめた。
 
 おなかがすいた。ベンチから立ちあがり伸びをする。あたりはすっかり暗くなり、夜景がゆっくりと動いている。向こうではスーパーの照明がひとつ消え、近くでは窓の明かりがひとつ付いた。昔より、夜景が嫌いでなくなったのはなぜかなあ。星のない夜空を見上げると、やっぱり街の明かりなんてなくなれと思うけれど。わたしはひとつ星を見つけて、家へ帰ることにした。

2012.05.28




お題提供:おのみちさま
企画「BLACKEN VERMINS」提出
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